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大東市のおいたち

記事ID:0001018 更新日:2020年11月25日更新 印刷ページ表示

古代から中世

古代・中世

  • この地で人々の活動が営まれるのは、今のところ縄文時代草創期のころであることが確認されています。縄文時代前期ごろには生駒山地のすぐ麓まで海水域が入り込み、湾(河内湾)となっていましたが、縄文時代中期以降、湾は次第に規模が縮小し、弥生時代には湾(河内湾)から湖(河内湖)へと変化していきます。そのころ市域の大半が水域に覆われていましたが、河内湾周辺であった中垣内や野崎、北条あたりに人々が住み着き、農耕を基盤とする集落が形成され始めます。
  • 古墳時代には堂山古墳群を始め飯盛山麓一帯に多くの古墳が造営され、その麓には当時朝鮮半島からやってきた渡来系の人々が活動をしていた痕跡が見いだされます。このころから次第に我が国の大きな歴史の流れの中に組み込まれていくようになり、西大寺の荘園であった河内国更占(讃良)郡須濱庄(現在の中垣内の須波麻神社周辺)のことが奈良時代の文献に登場し、当時の土地開発である条里制の名残は、現在でも中垣内から北条にかけて地名として残っています。
  • 平安時代になると清少納言が「枕草子」のなかで勿入渕(ないりそのふち)と呼称しているように、湖は大きな池となっていました。このころ整備された東高野街道沿いには集落が出来、特に奈良へ向かう中垣内越の道と交差する寺川や中垣内辺りは交通の要衝として重要な地となり、「延喜式」には須波麻神社のことが記されています。
  • 水とのかかわりでは古代より度々の水害に見舞われたことが文献に記されており、この地での生活が大変なものであったことがうかがい知ることが出来ます。しかし、ここには豊富な魚介や特産物の蓮など多くの自然の恵みがあり、今の赤井付近には当時の皇室の食料を調達するための供御領が置かれていました。また、平安時代の終わりごろまでには三箇、灰塚、氷野の集落が成立し、鎌倉時代になると北新町や御領、諸福などにも集落が形成され、低地への開発が進んだことを物語っています。
  • 東高野街道が通るこの地は、戦略上重要な場所であるため度々戦乱の舞台として歴史に登場します。南北朝の戦いでは「四条畷の合戦」が知られ、戦国時代では三好長慶の居城となった飯盛城があります。このころになると、東に深野池、その西南に新開池と二つの池に範囲が確定し、深野池に浮かぶ島には飯盛城の支城である三箇城があり、城主の三箇殿は自らキリシタンとなりこの地に教会を建設するなど、その熱心な活動と三箇城のいきいきとした様子は、宣教師ルイス・フロイスによって遠くヨーロッパにまで伝えられていました。しかし、その城も今は跡形もなく消えてしまい、「幻の城」として人々のロマンを誘っています。

近世

近世の画像

  • ここまでの歴史の背景であった地域の姿を一変させたのが、江戸時代中期河内平野の治水のためになされた大和川のつけかえ(1704年)とそれに伴う深野池、新開池の干拓、新田の造成でした。とりわけ深野池の新田開発は本願寺難波別院が中心となり、各地からの開拓民の参加によって進められ、その多くの定着はそれ以降の農業と農村の基礎をつくる大きなきっかけとなります。こうした大事業の結果稲作を中心に木綿、菜種などの生産高は飛躍的に増大し、当時「天下の台所」として発展目立つ商都大坂を支える最も重要な後背地の地位を確立することになります。
  • 農業生産の伸びは更に地域自体の発展を誘い、この地は大坂と奈良を結ぶ交通の中継地の、周辺一帯からの農産物などの集散地の役割を一層高め、寝屋川、恩智川の合流する角堂浜は剱先船の船着場など貸客舟運の拠点としておおいににぎわいを見せ、野崎参りなど都市部との行き来も盛んになっていきます。こうした様子は今も住道駅の川沿いに残る街並み、街道、史跡、そして「河内名所図絵」や近松半二の浄瑠璃「お染久松」を通してうかがうことが出来ます。またこれに合わせて21の村落が出来、各村を単位に地域社会の仕組みが整い、農民生活も向上していきます。

現代

現代の画像1

  • 明治に入り廃藩置県(1871年)前後の河内県から堺県へなど移動はあったものの、現在の大東市は寝屋川以北の北西部が茨田郡4村、その他が讃良郡9村7新田に整理、区分され、やがて市町村制公布(1888年)を経て、改めて南郷、住道、四条の3村に統合され(1890年)、更に大阪府の北河内郡設置(1896年)によって、その後合併にまで長く続いた形をと取ることとなりました。
  • 近世末には豊かな農業生産を基礎に大坂の経済の支柱になり、また北河内地域の中心に成長したこの地には、資本の蓄積や進取の精神もはぐくまれ、明治の初めには地元篤志家による最初の私学校、深野郷学校の開設(1872年)、片町・四条畷間の鉄道、浪速鉄道の開通(1892年)など時代に先駆ける試みがなされ、地域社会の近代化が促されます。浪速鉄道はその後国有鉄道片町線となり(1907年)、野崎駅の常設化(1912年)が図られるなどしますが、舟運に変わる陸の幹線として大阪都心部と北河内一帯との関係をより密にし、その後の近郊都市化に貢献していくことになります。
  • 大正の半ば南郷、住道、四条の3村の人口は約12,300人、2,500世帯(1920年・第1回国勢調査)となり、住民生活の環境づくりへの胎動も生じ、東高野街道筋の電灯設置(1913年)や住道村一円への上水道整備が実現されています。上水道はそれまで河川に依存し、伝染病発生の危険の大きかった飲料水を、灰塚浄水場の建設によって解決したもので、当時の情勢からすれば画期的な事業と評価されました。
  • このような中で人口もわずかずつ増え続け(1920~40年の間年平均約310人の増加)、住道村は先行して町に昇格(1937年)しますが、その直後には全体で約18,600人、3,600世帯のまちになっています。

現代

現代の画像2

  • 第二次世界大戦前後から寝屋川沿いに都心方向からの工場進出などが見られるようになり、戦争直後には引揚者なども含め人口は23,000人(1947年・国勢調査)を超えます。都市化はまだ緩やかでしたが、昭和27年(1952年)四条村の町昇格の4年後、人口が30,000人規模を超えた直後の昭和31年(1956年)2町1村の合併で大東市が誕生します。
  • 新市のスタートに前後して阪奈道路、大阪中央・外環状線などの広域道路網や国鉄片町駅複線化の事業化が一斉に進み始めます。時を同じくして時代はまさに高度経済成長期と大阪都市圏の外側への膨張期にも重なり、その受け皿としてこれからほぼ20年間大東市は住宅、工場や事業所の目立つ進出によって急速な人口増加と都市化を経験することになります。
  • 因みに昭和50(1975)年の人口約111,000人、32,700世帯(国勢調査)は20年前に比べるとそれぞれ3.7倍、3.9倍という驚異的な値を示しています。そしてこれは大東の都市発展を意味したと同時に、もともと農地の比率が高いうえに、地盤も弱く、限られた生活基盤しか持たない地域だっただけに一定の環境水準の達成を求めて空前の行政需要を生み、それらへの対応の難しさがさまぎまな都市問題を引き起こす原因になってしまいます。
  • 更にこうしたさなか、人口の10万人突破を記録した昭和47年と3年後の同50年、集中豪雨と河川氾濫による未曾有の水害に襲われ、多くの市民が被災することとなります。
  • しかしそれ以降大東はこの二重の苦難を乗り越え市民のニーズに応えた大都市近郊都市としてのシビル・ミニマムを達成していくため、特に大水害を教訓に下水道事業の推進と河川・水路の改修を最重点課題に挙げ、同時に道路、公園、教育施設、福祉施設、更には住道駅前地区再開発を始め拠点地区整備などを目指して積極的なまちづくりを進めます。現在市民が利用している多くの公共施設の大半はこの時期の市民と行政の努力によってつくり上げられてきたものであり、この苦労は忘れられてはなりません。

今日

今日の画像

  • やがて昭和も60年代に入り、市制も30周年を迎えるころから急激な都市化と大水害の影響を残しながらも大東はまちづくりの新しい段階を迎えるようになっていきます。JR片町線の複線電化(1979年)、連続立体化(1989年)、「学研都市線」への位置付け変更、更にはJR東西線との乗り入れ(1997年)や近畿自動車道、大阪外環状線の開通始め広域幹線道路の整備は、大東の大阪都心部や周辺諸都市との地域関連性をますます強めつつあります。
  • その一方市内では「人間尊重の快適なまちづくりをめざして」を掲げる第2次総合計画、「つくろうヒューマン新都心・大東」をテーマとする第3次総合計画(1991年策定)に基づいて、それぞれの時代状況と市民の声に応えて厳しい財政の下にありながらも「総合文化センター(サーティホール)」(1987年)から「龍間ぐりーんふぃーるど」(2000年)に至るまでさまぎまな施設を始めとする生活環境基盤、地域生活システムの整備が進み、それに伴って個性と魅力を備えたまちの顔が見えてくるに至っています。
  • 21世紀が幕を開け、地方分権の進展や社会環境の変化が一段と加速しているなか、これからのまちづくりはこうした時代の変化に的確に対応すると共に、地域特性に応じた施策の展開が最も重要となって参ります。2001年には市制45周年を迎え、「いきいき安心のまち・大東」をテーマとする第4次総合計画(2001年策定)に基づいて、新世紀初頭ほぼ30年間を目標に、市民・企業と行政がそれぞれの役割と責任を担うまちづくりの協働を進め、都市基盤整備を始め、福祉・文化・教育など新世紀に対応した施策推進を図り、安心・安定の環境を整えた活気と個性、魅力に営むまちづくりに取り組んでいます。