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令和2年2月号掲載・小澄源太さんのインタビュー

記事ID:0002836 更新日:2020年11月25日更新 印刷ページ表示

広報「だいとう」2月号の「ほっとタイムエッセー」で掲載した、小澄源太さんのインタビュー全文をご紹介します。
小澄さんは、NHKの連続テレビ小説「スカーレット」の登場人物、ジョージ富士川が制作した作品を実際に手掛けられました。
広報誌には掲載しきれなかった内容もありますので、ぜひご覧ください。

取材時の様子

スカーレット作品

スカーレットに登場した立体の作品について

骨組みが届いてから2週間ぐらいで完成しました。残り4日になって、なんか違う…と感じ、このまま突っ込むかどうか迷いました。そこで、表面をトゲトゲにすることを思いつきました。ホイップクリームの絞りのような要領で、使って固まる絵の具を絞り、最後は簡易乾燥機を作って乾かしました。

発想は4日前にどうやって浮かんだ?

「強さ、人のエネルギーを封じ込めたい」という思いがずっとありました。でも、いつもどおりやったら、それができませんでした。じゃあどうやったら「魂入ってる!」という状態になるかと考えました。
作品に描いている「さきみたま」は「幸せの心」、「くしみたま」は「悪」を意味します。悪の部分は、消さないといけないと思っている人が多いけど、パフォーマンスには悪の力を使わないといけないときもあります。優しさだけでいい作品は生まれません。
作品は、石切神社でも飾らせてもらいました。上についているのは葉っぱ。植物と造形。植物自体が神様の作った作品なので、植物には手を加えません。人と神様の作った造形のコラボレーションという意味も込めています。

半分だけ神

表面のトゲトゲ

作品づくりについて

普段は、実家や門真市で借りている部屋で絵を描いています。部屋の広さは4畳半。世間のイメージと実際の生活のギャップが大きい。自宅に描くスペースはあまりないので、いろいろなところを借りて制作しています。この体制になったのは2011年からで、それまではちゃんと場所を確保して活動していました。

生い立ち

6歳の時に神戸から引っ越してきました。四条小・中学校、大東高等学校出身。大東市で育ちました。住んでいる場所は点々としていますが、その中でも、大東が一番「住んだな」という感覚がある街です。

絵を描き始めたのはいつから?

絵を習ってはいませんでした。小学一年生のとき、美術の先生がお母さんに「この子がもし将来絵を始めたいと言ったら肯定してあげてください」と言ったというのが一つのエピソードです。それをお母さんがずっと自分に言ってくれてたので、その気になったのかもしれません。絵、工作が好きで、じっとしていられないけど、紙や箱を与えたらそこでエネルギーを消費しているような子でした。漫画とかも描いていました。

クラブ活動について

美術部には入っていませんでしたが、絵を描くことが好きだったので旅行のしおりを描いたりしていました。中学校に入って、「ほんとに絵が上手な子=デッサンがうまい子」が現れ、自分はそうではなかったのでその時は少し自尊心が削られました。でも、同じ土俵で勝負しても勝てないと思い、うまいだけでなく、おもしろい発想を生み出そうと考えました。

高校卒業以降

周りが大学進学など進路を決める中で、自分は夢もありませんでした。画家になりたいとかもなく、ただ単に大人になりたくなかった。結局、大阪美術専門学校へ進学。芸大を受けるチャンスもあったけど、デッサンの勉強が嫌いで、好き勝手に描くのが好き。「このコップを描きましょう」みたいなのは嫌で、「俺が思うコップ」を描くのは好き。正解・不正解がある世界で直される感覚がしんどく、これすらできないのか、と挫折を感じました。専門学校も、一人親の母が一生懸命働いて行かせてくれたのに、3か月でやめました。入ったらおもしろいと思っていたけど、自分がおもしろいと感じないとおもしろくならない。受動的に、おもしろくしてくれるものだと思っていました。
そこからはバイト。25歳ぐらいに「このままではあかん」とやっと気づきました。どこかで、ちゃんと生きたいという衝動はあったと思います。その時、雑誌で調べてみると、憧れの人や成功している人はだいたい20代前半でアクションを起こしていることがわかりました。自分の好きな人はほとんどそうでした。それに気づいたのが、あと3か月で25歳になる日。「あと3ヶ月」とそこで初めて自分でリミットを決め、何ができるか探しました。最初は近すぎて絵には気づかず、ギターとかに手を出していました。なにもできないと思って絶望したとき、初めて部屋中にある絵に気づきました。そして、「初個展をしよう!」と決めました。場所を借りるには、お金がたりない…と困っていたら、偶然、南船場で絵が展示してあるカフェを見つけました。でも確認すると、しばらく予約が埋まっていて空いているのは半年後。間に合わない、と必死で訴えていると、急にキャンセルが入って、2週間後にできることになりました。今まで描いてきた絵+新たに描いた絵。個展が何かそもそもあまりわかっておらず、「個展をする」ことが目標でした。その後のことは考えていませんでしたが、実際にやってみると思いがけない反響。EGO-WRAPPIN’のCDジャケットを手掛けることが決まりました。そしてそれが好評で、企業からもオファーが来るようになりました。FRED PERRY、SHARPの広告など。そこまで期待していなかったのに、それを上回るオファー。人生一回の勇気、ちょっとした行動でこんなに転がり始めるのか、と思いました。自分がついていけませんでした。最初は、「きた仕事は受けよう」ぐらいの気持ちでしたが、1~2年経って、「仕事にしてもいいのかも」と自分で自分を許せるようになってきました。やるなら本気で。プロの覚悟でしないと失礼にあたると、覚悟を決めました。

絵を仕事にし始めてから

企業広告になったのは全体の5%ぐらいのきれいな絵で、今描いている絵とは全然違いました。なので、仕事になったのは自分の5%ぐらいの部分で、「一部の自分しか出せない」と苦しむようになりました。巨勢で描いているような気になり、気持ちが下がってくる周期がありました。30歳ぐらいのとき、絵を続けることがしんどくなり、限界がきて、仕事とは関係ない好きな絵を描いていました。その後、子どもが生まれたのでアルバイトや派遣の仕事を始めました。初めてのサラリーマン。約3年間。
会社員として働いているときに、ファッションブランドの株式会社ヨウジヤマモトのY’sから「コラボレーションしたい」とオファーをいただきました。会社での仕事があったけど、オファーは受けたい。会社では、人より抜きんでるものがなかったけど、絵の世界では自分にオファーをくれる。日中は働いて、帰ってから絵を描くという生活を2か月間続け、やりきりました。お正月を挟んで、「アートディレクターとしてカタログの撮影にも入ってほしい」と依頼されました。会社と両立する生活を続けるのは無理がありました。絵を描いているときが、一番イキイキできる。結局、仕事を辞めると決意し、東京での撮影に本気で取り組むようになりました。

ライブペイントについて

もともとは、やりたかったわけではないが伝統があり、20代からやっていました。でも、なぜ見せているのか、あまりよくわかっていませんでした。良い絵を描くなら、人が見てない方が集中できる。じゃあ、何を見せたいのか?と考え、絵を見せたいというより、モノを作るときの衝動、エネルギーだと気づきました。何かを始めるのには怖さがある。昔の自分みたいな人に火を付けられたら、と思いました。自分が救われたい、すごいと言われたいと考えてた20代でしたが、35歳ぐらいになり、かつての自分みたいな人の背中を押せる存在になりたいという考えに変わってきました。

スカーレットの作品を手掛けるようになったきっかけ

20歳のころに出会ってた人と20年ぶりぐらいに会い、その人がNHKとつながりを持っていました。「また何かをやろう!」と話をしたあとに、その人が連絡をくれて、推薦で朝ドラに作品起用が決まったよっ!と。NHKからは作品に関しての細かいオファーはなく、「あなたの感性が好きだから、あなたに頼んでいる」というスタンスでした。

制作活動中

好きなアーティストについて

シュールレアリズム、ダリ、ゴッホなど、挙げればいっぱいあるけど、特定のというのはありません。ゴッホの絵は、昔は全く興味がありませんでした。27歳ぐらいのとき、同世代の人たちがどんな絵を描いているのかを知りたいと思い、ニューヨークへ。有名なギャラリーでゴッホの「ひまわり」を見て、衝撃を受けて動けなくなりました。絵でそういうのが起こると思いませんでした。ゴッホが憧れていたミレーの「落ち穂ひろい」が横にあり、それは天使の匂いしかしない絵でした。ゴッホは悪の塊。その絵を見て、名画と言われていることになんとなく納得。しょうもないと思っていたけど、世界が認める理由がわかり、人生が5回あってもこの絵は描けないと思いました。でも、残念ではなく嬉しいという感情。一生かけてもいい。絵の世界は思っていた以上に深い!と思いました。

憧れの人について

初期は、五木田智央さんの絵をかっこいいと思っていて、影響を受けていました。実際にお会いしたこともあります。人をモチーフに、漫画チックな絵。今は白黒で絵画っぽいものを描かれています。

アイディアが浮かぶタイミングは?

設計図までは考えません。大切に扱いすぎても描けないので、テレビ見ながらのときもあります。作品を作るなら集中しないとダメだけど、絵はいつでも描いたらいいと思っています。立派な絵を描くことだけがめざすべき姿ではない。ラフな絵もいい。動物に例えたら、「みんながライオンを生み出そう」という絵の描き方はしんどい。リスがいてもいい。それぞれの良さがある。立派な絵もあれば、3歳児が描いたような絵も。上下を決める必要はなく、自分から生まれるすべてを許そうと思っています。

最近の活動について

個展は少なく、パフォーマンスや、服のブランドの展示販売と一緒に絵を展示したりしています。絵だけの展示は最近やっていません。

今後の活動について

5月23日、24日に大阪城野外音楽堂で行われるフェス「つながらーと」に参加する予定です。障害ある人もない人も関係なく、無料で参加できる、2年に1回のイベントです。

絵以外でやってきたこと

絵がスランプのときは写真。Canon主催のコンテストで蜷川実花さんの佳作をとったこともあります。「表現したい」という衝動はどこにいってもいいと思っています。たまにはアクセル全開にしないとすっきりしない。絵を描くのがしんどい時は割り切って。絵が好きで、また戻ることはわかっていました。写真も絵も服も、「やっぱり小澄源太だね」と言われればいいと思っています。

伝えたいこと

「ポンコツだけど頑張ってる」ということが伝わればいいと思っています。最近は、講演の依頼もいただくようになり、アーティストをめざす人たちの前で話をする機会もあります。不安でいっぱいな子たちに、安心してもらいたい。「自分のポンコツさを許しながら頑張ればいいんじゃない?」と言えるおじさんになりたいです。挫折してるからこそ、伝わると思います。「俺すごいで」とはよう言わない。「すごくなかったけど、なんか今、はたから見てすごいことやってる」と言えるようになっただけ。ということを伝えたら、その子たちも、「可能性あるかもしれない」と未来に希望を持てるようになるかもしれないなと思います。

今後の夢

作品を世に出すというよりも、作品を通して、自分と同じような考えの人に訴えたいです。それが役目じゃないかと思っています。みんなが元気になってほしい。完璧な人が言ったらしんどいけど、自分ならメッセージ性が強い。自慢できることが少しはできたから、ダメな部分も出せるようになったのかもしれません。若い時はそんなこと思えませんでした。虚勢を張って、負けたらダメと思っていました。ダメな部分が出せるようになって、少し楽になったように思います。