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大東の歴史遺産 これからどうなる?どうする?

記事ID:0054521 更新日:2024年6月4日更新 印刷ページ表示

大東市には学術的価値が認められた国史跡飯盛城跡、市が発展するきっかけとなった平野屋新田会所の跡地など歴史的遺産が多くあります。このような遺産を将来どのように保存していくのかご紹介します。

飯盛山山頂に築かれた山城跡 国史跡飯盛城跡

この春から大東市にやってきた山田さんは歴史が好きな大学院生。特にお城に興味があります。山田さんは大東市の歴史を探ろうとまずは飯盛城跡に行ってみることにしました。

天野教授​ 天野 忠幸 教授 天理大学の教授。三好長慶研究の第一人者。

山田さん 山田 さん 歴史が好きな大学院生。特にお城が好き。趣味はスポーツ観戦。

飯盛城山頂←西日本有数の規模

天野教授「飯盛城跡を知っているかい?飯盛城跡は戦国武将の三好長慶が住んでいた城跡なんだ。」

山田さん「知っています!学術的価値が認められて国史跡に指定されているんですよね。特に虎口の石垣が戦国時代を感じられて好きです。」

石垣

天野教授「よく知っているね。本格的な石垣が作られた山城であったことが調査で分かり、国史跡に指定されたんだ。」

山田さん「立派な石垣ですね!昔はどれくらいの高さだったんだろう?詳しい説明があるといいんですが…。」

天野教授「これからルート案内用の看板ができたり、遺跡の説明板ができたりと整備されていくよ。」

 

コラム  飯盛城跡の魅力!城の入口「虎口」

虎口とは、城の出入り口のことです。写真は飯盛城の南側の虎口で、石垣が築かれています。石垣に使われた石材は大ぶりなものや円形状のものなど特徴的です。特に大ぶりな石材は鏡石と言われ、巨石を見せつけることで来る人に威圧感を与え、城主の威厳を示すために目立つ場所に据えられたと考えられます。

虎口

 

令和3年10月に国史跡になったことで、史跡指定理由となった学術的価値を守りながら多くの人が史跡への理解を深められる整備が必要になります。保存・活用の基本的な方針を決めて文化庁の認定を受けるため、市は四條畷市と協力し2年かけて「史跡保存活用計画」を作りました。

詳細はこちら

 

未来の飯盛城跡

ダイトンに連れられて未来にやってきた山田さん。整備された飯盛城跡の姿を目にしました。

主郭整備イメージ←主郭整備イメージ

山田さん「すごい!城跡の姿が分かりやすくなるんですね!」

天野教授「飯盛城跡は戦国時代を体感できる貴重な歴史空間です。城跡を通して世代間交流や町への愛着を育てていけるような姿になるんだよ。」

 

上空からの飯盛城跡を見て驚く山田さん。コースも歩いてみることにしました。

虎口整備イメージ​←虎口整備イメージ

整備イメージ(御体塚郭)​←御体塚郭の整備イメージ

山田さん「遺跡の説明が書いてますね!山の自然に触れながら歴史を学べるお出かけスポットとして、家族や友人と行ってみたいです。」

天野教授「遺跡の価値を守りながら未来に伝え続けられるような整備が必要だからね。私も飯盛城跡の未来が楽しみだよ。」

 

今年は整備の具体的な方法を示した「整備基本計画」を作り、その後発掘調査を経たうえで整備を始めることができます。山田さんが見た飯盛城跡の姿は現時点のイメージなので、未来の姿はまた違ったものになるかもしれません。市は飯盛城跡の保存と活用に向けてこれからも取り組んでいきます。

 

市指定史跡 平野屋新田会所跡

平野屋新田会所跡

生涯学習課職員 生涯学習課職員「こんにちは山田さん!ここは市の史跡に指定されている平野屋新田会所跡です。」 

山田さん「うーん。聞いたことはあるのですが、昔ここで何をしていたか知らないし、これからどうなっていくのか知りたいです!」

生涯学習課職員「では昔の平野屋新田会所を少しだけのぞいてみましょう!」

CGで再現された平野屋新田会所

CG再現平野屋新田会所

生涯学習課職員「ここで年貢の集積、住民の管理、武家の接待を行っていたんです。災害時には住民の避難所にもなり、とても重要な役割をしていた場所だったんですよ。」

山田さん「住民にとってなくてはならない所だったんですね。今でいう市役所のようなイメージですね!」

生涯学習課職員「千石蔵跡・道具蔵跡・船着場跡・周濠跡が市指定史跡なんですよ!」

 

大阪産業大学松本裕研究室が作成した平野屋新田会所の復元CG動画が市公式YouTubeで見ることができます。

こちらから<外部リンク>

 

コラム 深野池の新田開発と平野屋新田会所

宝永元年(1704)の大和川付替え工事により干上がった深野池の跡地に、甲子園球場約84個分の新田が生まれました。この新田開発によって、今日の大東市の地形ができあがりました。その後、新田は五つのエリアに分けられ、享保6年(1721)、深野南新田(平野屋・谷川・南新田地区)と河内屋南新田(東大阪市元町地区)が両替商平野屋又右衛門の所有地となり、新田の管理事務所として平野屋新田会所が設置されました。

コラム平野屋新田会所

 

未来の平野屋新田会所跡

平野屋新田会所跡の整備に向けて市は令和6年3月「市史跡平野屋新田会所跡保存活用計画」を策定しました。今後、この計画に基づき、平野屋新田会所跡を整備していくとともに、保存・活用の取り組みも進めていきます。

詳細はこちら

 

遺構や川を見ながらくつろげる休憩スペース

①整備イメージ←整備イメージ​

①現在←現在

①過去←過去

現地に残る遺構の露出展示

②整備イメージ←整備イメージ​

②現在←現在

②過去←過去

 

銭屋川沿いの回遊スペース

③整備イメージ←整備イメージ​

③現在​←現在​

③過去←過去

遺構を見ながら、新田開発や新田会所の歴史を学習でき、皆さんが憩える場所として、令和8年度の完成を目標に平野屋会所跡の整備を進めていく予定です。

 

平野屋新田会所跡パンフレット

市と大阪産業大学松本裕研究室が協力し、平野屋新田会所跡と関連遺産を紹介するパンフレットを作成しました。市内の公共施設で配布しているほか、こちらからダウンロードできます。

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