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『飯盛城跡』の国史跡指定が答申されました

記事ID:0026343 更新日:2021年6月18日更新 印刷ページ表示

大東市と四條畷市は平成28年度より共同で「飯盛城跡」の調査を実施してきました。調査の結果、城郭史上の画期に位置づけられる貴重な遺跡であることが判明しました。このことから、両市では、「飯盛城跡」をより良好な状態で保存し、また活用することにより未来へ残していくために、令和2年度に国に対して「飯盛城跡」の国史跡指定について意見具申を行いました。

これを受けて、令和3年6月18日に開催された国の文化審議会において「戦国時代の政治・軍事を知るうえで貴重」であるとして「飯盛城跡」を国史跡に指定するよう文部科学大臣に答申されました。

今後は官報告示を経て正式に国史跡指定となります。指定されると大東市・四條畷市ともに初の国史跡となります。

市長のコメント

国の文化審議会で「飯盛城跡」の歴史的な価値が認められ、国の史跡に指定するように答申がなされたことをこの上ない喜びと受け止めております。また、今年は市制施行65 周年にあたります。さらに来年は天下人・三好長慶の生誕500 年にもあたり、そのような年に、居城であった「飯盛城跡」が貴重な城郭遺跡として全国に周知される機会に立ち会えたこと、重ねて喜ばしく思います。これまでの指定に向けた取り組みの中、ご指導・ご協力いただきました文化庁、大阪府、専門委員会、地権者の方々をはじめ、多くの関係者の皆様に深く感謝を申し上げます。

「飯盛城跡」の国史跡指定はゴールではなく、市民の皆様に飯盛城跡への理解を深め、素晴らしい歴史遺産を有する郷土に誇りを持っていただけるような取り組みを進めていくスタート地点だと考えております。今後は遺跡が立地する山林環境や周辺地域に配慮した、「飯盛城跡」の適切な保存と観光資源の核としての活用に向け、市民や関係者の皆様のご理解とご協力を賜りながら、大東市のさらなる発展につながるよう取り組んでまいります。

大東市長 東坂浩一

指定の種別

史跡

指定等の対象の名称

飯盛城跡(いいもりじょうあと)

所在地

大東市大字北條、四條畷市大字南野

指定対象面積

633,394.20平方メートル

(大東市域:514,009.30平方メートル、四條畷市域:119,384.90平方メートル)

遺跡の概要    

飯盛城跡は大阪府大東市・四條畷市にまたがる飯盛山の山頂に築かれた戦国時代末期の山城です。城を構成する遺構は山頂を中心に良好な状態で遺存しており、城域(じょういき)は東西約400m、南北約700mを測ります。

飯盛城は享禄3年(1530)に細川晴元(ほそかわはるもと)の被官である木沢長政(きざわながまさ)の居城として文献上はじめて登場し、その後、城主は安見宗房(やすみむねふさ)を経て永禄3年(1560)には天下人・三好長慶(みよしながよし)が居城とします。そして京都と五畿内を支配する三好政権の拠点・文化交流の場となりました。永禄7年(1564)に三好長慶が死去すると、養子の三好義継(みよしよしつぐ)が城主となりますが、永禄12年(1569)頃には若江城(わかえじょう)へ居城をうつしたとみられます。このことにより、飯盛城跡は城郭としての機能を失ったと考えられます。

これまでの調査成果

  • 戦国時代末期の重要な政治拠点・文化交流の場として機能したこと
  • 戦国時代末期の城郭遺構が良好に残存し、城の機能が推定できること
  • 戦国時代末期の山城における石垣の使用と構築技術を示す貴重な事例であること
  • 石垣・礎石建物(そせきたてもの)・瓦を導入した城郭であること

飯盛城に関しては豊富な史料が残されています。城を訪問したイエズス会宣教師を通じて、ヨーロッパで刊行された文献や地図でも紹介されており、三好政権の政治・文化の中心地であったことは知られてきました。また、近世以降でも刊行された地誌等の記録から重要な城跡として認識されていたことがわかります。

測量調査と分布調査を実施し、高精度の遺構図を作成したことで城域や城の構造が明らかになり、北エリアは防御空間、南エリアは居住空間として機能していたことが想定されます。また、石垣の分布状況が判明し、城の全域に本格的な石垣が分布していることを確認しました。石垣に後世の改修や破却の痕跡は確認されないため、構築時代の下限は飯盛城跡が城郭としての機能を失う永禄12年(1569)頃と考えられます。また、戦国時代の石垣構築技術を伝える貴重な遺構であるということができます。

発掘調査では、北エリアのV郭(御体塚郭(ごたいづかかく))では塼列建物跡(せんれつたてものあと)、南エリアのVIII郭(千畳敷郭(せんじょうじきかく))、IX郭(南丸(みなみまる))で礎石(そせき)を検出しています。V郭(御体塚郭)では瓦も出土しています。また、南エリアでは曲輪を造成する大規模な盛土を検出しており、大規模山城の築城工事の一端を明らかにすることができました。

以上の調査成果から、飯盛城は石垣・礎石建物・瓦の3つの要素を導入していた城郭であった可能性が指摘できます。3つの要素が本格的に城郭へと取り入れられるのは、織田信長(おだのぶなが)によって完成される高石垣(たかいしがき)や瓦葺で礎石建ちの高層建築の天守(てんしゅ)をもつ「織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)」からとされています。飯盛城は高石垣や天守はないものの、石垣・礎石建物・瓦という「織豊系城郭」に共通する3つの要素を取り入れた城は数少ない城であり「織豊系城郭」に先行して3つの要素を取り入れた稀有な事例といえます。

飯盛城跡近景(南東から)

飯盛城跡近景(南東から)

 

石垣69

石垣69

 

石垣88

石垣88

 


※飯盛城跡へ行かれる際には以下のリンク先をご活用ください