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飯盛城跡の遺構
【虎口】こぐち
虎口(こぐち)とは、城、あるいは曲輪の出入り口のことを言う。
この写真の虎口は、千畳敷郭南方、南丸の直下にあり、飯盛城の南門にあたる。
虎口の両脇には石垣が残っている。
左側の斜面は南丸の切岸で、その上辺には南丸の土塁が構えられている。虎口直前で土橋状になった登城口から虎口まで、一列になった敵兵に向けて、南丸からの横矢がかけられる仕掛けになっている。
さらに、たとえ敵兵が虎口を破って、後の枡形を思わせる曲輪に侵入しても、正面の切岸の上からの攻撃で立往生し、この曲輪の中で四方から矢を射かけられることになっただろう。
この虎口(こぐち)がいわゆる大手門にあたるかどうかは定かではないが、飯盛城は、その南方、龍間方面からの尾根道が唯一の弱点であるため、その防御は厳重を極めている。
大手門にふさわしいともいえるものであろう。
【堀切】
飯盛城の堀切は、尾根を途中で分断して、曲輪と曲輪の間や、外部から城内への簡単な行き来を妨げるものになっている。
写真は御体塚郭とその北側の曲輪の間にある、岩盤を削り抜いて大きく穿たれた、「大堀切」と呼ばれるものである。
現在では堀切の底面は平面的になり、堀切自体の斜度も緩やかになっているが、当時はここからさらに数メートルの深さがあっただろう。
周囲を巡る石垣と、この大堀切の存在が、御体塚郭の重要性を物語っている。
飯盛城ではここ以外にも、現在は管理道路がついている千畳敷郭と高櫓郭の間のところも大堀切であったと思われる。
【土橋】
山城における土橋とは、曲輪と曲輪を分断する堀切の一部を幅1メートル程度の堤状の道として残したもの。平時は曲輪間の連絡路に使うが、戦闘時にはこれを壊して曲輪の防衛力を高めることもできる。
土橋を残したままにした場合でも、攻城側が侵入するには一列になって進まざるを得ないため、守備側は攻め上がる敵兵を狙い撃ちできる地点となる。
飯盛城では、千畳敷郭と高櫓郭の間の堀切に、明瞭な形の土橋が残っている。
現在の土橋の両側面の堀切は土が堆積し斜度も緩くなり、木や草が生い茂っているため、渡るのにそれほどの恐怖感はないが、当時は土橋の両側はほとんど絶壁に見えたはずで、高櫓郭の守りを鉄壁にしていたと思われる。
【土塁】
曲輪の防御力を高めるために、土を積み上げ、たたき締めて作られた壁が土塁である。
平地では濠をうがち、そこで出た土を積み上げる掻揚(かきあげ)土塁が主だが飯盛山のような山城では、斜面を削った切岸とセットになる場合が見られる。
写真の土塁は南丸の東端に沿って連なる土塁の縦面を千畳敷郭方向から見たもの。
南丸の平面から2メートル近い高さが残っている。
この写真では、土塁の左斜面は10メートル近い切岸となっており、虎口を見下ろして、横矢を掛ける絶好の場所となっている。
【石垣】
飯盛城の特徴である石垣は、現在でも各所に残っている。
特に高櫓郭周辺や御体塚郭の周囲は、全面的に石垣で囲われていたようだ。
この写真の石垣は本郭の東側下方にあり、高さ1メートル30センチ、長さ20メートルと、見ごたえのある石垣である。ハイキング道の途中にありとても見やすいので、登城の折はぜひご覧頂きたい。
この石垣は北条神社からの登山道を登ってくると、曲輪到着の直前に見える、本郭の北にある蔵屋敷郭の西側斜面に残る石垣である。西側斜面には石垣があまり見つかっていないが、決して作られなかったわけではないようだ。
既に崩れ去ってしまった可能性もあるが、今後の発見があるかもしれない。
この石垣は本郭直下で、北側から東側までを囲む帯曲輪にあり、北東部から北面の30メートルに渡り残る、大規模な石垣の一部である。
すでに崩落している個所もあり、とぎれとぎれにしか見えないが、かつては本郭の周囲をぐるりと取り巻いていたことが想像できる。